アイデンティティ

トラウマの治療法に、家族内システム療法というのがあるらしい。

自己流に解釈すれば、自分の存在を様々な異なる気質や性質のネットワークとして捉え、乖離した自己の一部に名前を付け、役割を与えることで、乖離した自己を統合するという治療法だ。自分を単一のモノクロな存在としてではなく、家族のような関係性を包含した存在として捉えるところが革新的だと思う。

(トラウマ治療だけでなく、例えば、子どもを相手にする先生が、すぐに癇癪を起こす子供に対して、「またプンプンちゃん出てきちゃったね」と怒りに名前を付けることで落ち着かせるなど、自然に使われているようだ。)

心理学では、そのように自己を捉える考え方は、しばらく前からあったそうだが、最近では神経科学が、脳の様々な感情や理性を司る部分が半自律的に(つまりは脳として緩やかな連帯を保ちつつも半ば独立して)働くことを発見していることからも、自己をネットワークとして捉えることは、私たちの現実の存在描写に限りなく近いのではないか。

「死にたい」と思う自分。嫌いな自分。認めたくない自分。そうした自分も「自分というネットワーク(関係性)」の中で、何かしらの役割を与えられている。往々にして声が大きくなってしまってハイジャックされがちなネガティブな自分の声のボリュームを、「これは自分の一部でしかない」というように調節し、かつ、そのような自分から逃避したり拒否することなく、自己の一部として統合・受容することができる画期的な考え方だと思う。

それは、自分を交響楽団のような存在として捉えることとも言える。自分を一個性を持ったソリストとして扱うのではなく、ネガティブな自分も、ポジティブな自分も、野心的な自分も、弱々しい自分も、ある部分では賢い自分も、ある部分では愚かな自分も。オーケストラに、チューバやピッコロ、トロンボーンに、トランペット、パーカッションなど、様々な楽器があるように。一つ一つの性格、気質の個性を受け入れ、認めていく。そして、「私」は、自己の指揮者として(家族内システム療法では、この統合する主体をself セルフと呼ぶらしい)、それぞれの音量や、アーティキュレーション、フレージングを調節していく。統一された自己という美しい楽曲を世界に提供するために。

チューバの音だけがでか過ぎては困る。一方、全く聞こえないのも問題だ。批判、怒り、希死念慮のような自己防衛機制さえ、否定することなく、その役割を認め、しかし、その出しゃばりを諫めて元の立場に戻っていただく。それが、より良い自己との向き合い方なのかもしれない。