翻訳の不可能性:試論

ある言語を使う時、それは別の言語を使っている自己 Selfとは別の自己 Selfが現出しているのではないか。

言語には、それぞれの構造、ネットワーク、言語体系がある。その言語/文化にしかない概念があり、その言語を使うことでしか表現できないニュアンスがある。確かに、ニュアンスを無視して、内容を情報として伝達しようとすれば、翻訳は可能であろう。

「そこの角で右に曲がってください」

"Turn right at the coner"

しかし、その言語にしかない言い回し、その言語しか放てないニュアンスに関してはどうだろう。

"Text without context is a con"

「文脈のないテキストはただの出まかせだ」

※これでは、英語の文のことば遊びは伝わらない。

ある言語を使う時、新しい世界観に基づく自己 Selfを、自己のネットワークのうちに創出しているのではないか。もし人が二言語以上を話す時には、その人のうちには、全く異なる二つの世界が存在しているのではないか。その二つの世界は互いに重なり合いながらも、全く異なる自己のネットワークを形成しているのではないか。

バイリンガルトリリンガル、クアトロリンガルの子どもは、自己にそれぞれの言語のある程度閉じられた世界を持っているのではないか。他の国に長い間行って帰国した人は、自己にほとんど翻訳不可能な2つ以上の世界を持っているのではないか。

実のところ、そのどれもが自己であることには変わりないだが、そう考えると、異なる言語を駆使する人がそれらを完全に統合して一つのアイデンティティ=一つの統合された自己ネットワークを創り上げるのはかなり難しいことなのではないかと思うのである。それは、ある言語から他の言語へ翻訳行為を行う時に、ただ意味を情報として「変換」するのではなく、原語の意味とニュアンスを理解し、他の言語をそれを「再創造」する必要があるように、それぞれの言語世界の自己 Selfを深く理解した上で、全く新しい一つの世界を再創造する作業と言えるのではないだろうか。

それにはとてつもない産みの苦しみが伴うような気がする。