時間

学生時代、ゼミの友人がいくつかの言語研究を通して、「私たちは未来に向かって前に進んでいるように一般的には思っているが、実際のところ、未来の方が私たちに向かってきているのではないか」というような発表をしていた。

「時間が後ろから前へと過ぎ去っていく。その時の流れの中を流されるようにして私たちが前に進んでいく」のではなく、時間が前から流れてきている。時間の方が前から私たちの方にやってきている。時間については私たち人間にコントロールできることなど何一つないのを考えると、実はその考え方の方が現実の描写に近いのではないかと思った。

ハイデガーか誰かの時間の概念について聞いているときに、アウグスティヌスの時間の捉え方について先生が触れたような気がした。アウグスティヌスはこの世界は過去、現在、未来と綿々と続いているのではなく、現在だけが存在していて、神がそれを一瞬一瞬再創造していると言ったそうな、言ってないそうな。うろ覚えである。アウグスティヌスが本当にそれを言ったかどうかは分からないが、時間概念として正しいような気がして納得したことは覚えている。今しか存在しない。過去は現在のものとして想起され、未来は向こうからやって来て現在となる。

最近、野家啓一『歴史を哲学する』岩波書店、2007年を読んで、神が存在するとしたら、神にとっては過去・現在・未来などなく「永遠の現在」だけがあるはずだという言説を知った。著者は神の視点を想定すること自体が誤謬だと主張しているが、「永遠の現在」という考えは興味深いと思った。実のところ人間も、経験できるのは、永遠ではないしても現在だけなのではないだろうか。過去は過去の時点で現在として経験されたもので過去を再び経験することはできず、未来は向こうからやってきて、現在として経験されるので、未来としては経験できない。

学生時代、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』を読んで、ユダヤ共同体の時間観念(というより多くの前近代的な時間概念)は、今のような過去、現在、未来の直線を描いていないという言説に出会った。ユダヤ共同体の場合それは、神の預言とその成就のような円運動を描いていて、それは直線のような進歩がないというわけではないが、少なくとも過去・現在・未来というような直線構造ではないと書かれていた(気がする)。神の預言とその成就という円運動で歴史を捉えることも、「永遠の現在」の考え方に限りなく近いのではないかと思う。

何が現実の時間概念描写に一番近いのだろう。