翻訳の不可能性:試論

ある言語を使う時、それは別の言語を使っている自己 Selfとは別の自己 Selfが現出しているのではないか。

言語には、それぞれの構造、ネットワーク、言語体系がある。その言語/文化にしかない概念があり、その言語を使うことでしか表現できないニュアンスがある。確かに、ニュアンスを無視して、内容を情報として伝達しようとすれば、翻訳は可能であろう。

「そこの角で右に曲がってください」

"Turn right at the coner"

しかし、その言語にしかない言い回し、その言語しか放てないニュアンスに関してはどうだろう。

"Text without context is a con"

「文脈のないテキストはただの出まかせだ」

※これでは、英語の文のことば遊びは伝わらない。

ある言語を使う時、新しい世界観に基づく自己 Selfを、自己のネットワークのうちに創出しているのではないか。もし人が二言語以上を話す時には、その人のうちには、全く異なる二つの世界が存在しているのではないか。その二つの世界は互いに重なり合いながらも、全く異なる自己のネットワークを形成しているのではないか。

バイリンガルトリリンガル、クアトロリンガルの子どもは、自己にそれぞれの言語のある程度閉じられた世界を持っているのではないか。他の国に長い間行って帰国した人は、自己にほとんど翻訳不可能な2つ以上の世界を持っているのではないか。

実のところ、そのどれもが自己であることには変わりないだが、そう考えると、異なる言語を駆使する人がそれらを完全に統合して一つのアイデンティティ=一つの統合された自己ネットワークを創り上げるのはかなり難しいことなのではないかと思うのである。それは、ある言語から他の言語へ翻訳行為を行う時に、ただ意味を情報として「変換」するのではなく、原語の意味とニュアンスを理解し、他の言語をそれを「再創造」する必要があるように、それぞれの言語世界の自己 Selfを深く理解した上で、全く新しい一つの世界を再創造する作業と言えるのではないだろうか。

それにはとてつもない産みの苦しみが伴うような気がする。

身体性の地平

心が変われば、考え方が変わる。考え方が変われば、生き方が変わる。心と考え方と生き方(身体)のつなぎ目が脳の神経細胞だとすれば、新しい刺激を受けて神経細胞が変われば、すべてが変わることになる。とすれば、ただ画面の前に座って、「知的情報を摂取する」だけだとしても、人生は変わり得る、身体は変容し得るはずだ。

その意味で、一般に言われるような「机の上のお勉強」と「出て行って経験する」ことの差は存在しないはずだ。どちらも「体験」、身「体」をもって、神経細胞をもって、五感を通して、経「験」しているのだから。誰かが言ったように「私は講壇からすべての人の人生を変え得る」のだ。

もちろん、机の上で座って勉強するのと、外に出て経験するのでは、「体験」の種類は異なるかもしれない。しかし、新しい刺激が入って来て、神経細胞が変化し得る点においては何も変わらないはずだ。ならば、心と考え方と生き方を変えたければ、「机の上のお勉強」か「出て行って経験する」ことのどちらが上かを議論するのではなく、どちらも「体験」すること、あらゆる形の刺激を受け続けることが重要になるだろう。

多くのものがオンラインになった今、私たちの現実はすべてがバーチャルのようになってしまったかのように感じる。しかし、私たちはどこまでいっても身体的存在で、オンライン、バーチャルさえも、脳で、身「体」で、経「験」するのである。身体的存在である私たちがオンラインをより多く、より広い次元で「体験」する時、私たちの心、考え方、生き方はどのように変容していくのだろうか。

アイデンティティ

トラウマの治療法に、家族内システム療法というのがあるらしい。

自己流に解釈すれば、自分の存在を様々な異なる気質や性質のネットワークとして捉え、乖離した自己の一部に名前を付け、役割を与えることで、乖離した自己を統合するという治療法だ。自分を単一のモノクロな存在としてではなく、家族のような関係性を包含した存在として捉えるところが革新的だと思う。

(トラウマ治療だけでなく、例えば、子どもを相手にする先生が、すぐに癇癪を起こす子供に対して、「またプンプンちゃん出てきちゃったね」と怒りに名前を付けることで落ち着かせるなど、自然に使われているようだ。)

心理学では、そのように自己を捉える考え方は、しばらく前からあったそうだが、最近では神経科学が、脳の様々な感情や理性を司る部分が半自律的に(つまりは脳として緩やかな連帯を保ちつつも半ば独立して)働くことを発見していることからも、自己をネットワークとして捉えることは、私たちの現実の存在描写に限りなく近いのではないか。

「死にたい」と思う自分。嫌いな自分。認めたくない自分。そうした自分も「自分というネットワーク(関係性)」の中で、何かしらの役割を与えられている。往々にして声が大きくなってしまってハイジャックされがちなネガティブな自分の声のボリュームを、「これは自分の一部でしかない」というように調節し、かつ、そのような自分から逃避したり拒否することなく、自己の一部として統合・受容することができる画期的な考え方だと思う。

それは、自分を交響楽団のような存在として捉えることとも言える。自分を一個性を持ったソリストとして扱うのではなく、ネガティブな自分も、ポジティブな自分も、野心的な自分も、弱々しい自分も、ある部分では賢い自分も、ある部分では愚かな自分も。オーケストラに、チューバやピッコロ、トロンボーンに、トランペット、パーカッションなど、様々な楽器があるように。一つ一つの性格、気質の個性を受け入れ、認めていく。そして、「私」は、自己の指揮者として(家族内システム療法では、この統合する主体をself セルフと呼ぶらしい)、それぞれの音量や、アーティキュレーション、フレージングを調節していく。統一された自己という美しい楽曲を世界に提供するために。

チューバの音だけがでか過ぎては困る。一方、全く聞こえないのも問題だ。批判、怒り、希死念慮のような自己防衛機制さえ、否定することなく、その役割を認め、しかし、その出しゃばりを諫めて元の立場に戻っていただく。それが、より良い自己との向き合い方なのかもしれない。