結婚
情緒的であること
情緒的であること、感情的であることが批判されがちな世の中ではある。一方では、感情がすべてとされ、一方では理性と比べて感情は劣るものとされ、蔑まれる。
実際のところ、感情にも理性にも、それぞれの役割、立場というものがあって、その限りにおいて意味があり、どちらが上とか下とかはないのだと思う。
思考も感情も深くつながっている。論理的に言えばこうだと声高に叫ばれる主張が感情的になされ、強烈な感情がある思想に基づいて引き起こされる。
感情と思考のつながりに気づいていること。そのどちらも大切にしつつ、どこを目指していくべきかに従って、思考も感情も歩みをそろえて、整えていくこと。それが大切なのではないか。
哲学とは
恩師が哲学とは、「世界と自分の信じているものをつなぐものだ」と言っていた。言い換えれば、哲学とは、信念と生き方をつなぐものだと言えると思う。人は一貫した信念体系を持っている。もちろん、思想がてんでバラバラに混乱していたり、ちぐはぐにつながったりしていることは、よくあるけれども、根っこの部分にある確固たる信念というものを人は意識せずとも持っていると思う。しかし、信念と生き方が日常生活の中で具体的につながっている人は、少ないようにも思う。自分も含めて。自分が信じている信念体系をことばにして、一つ一つ具体的な状況や生き方に当てはめていく。そうして、また自分自身の信念体系を研ぎ澄ましていく。それが哲学の役割と言えるのではないか。
真理は楕円形をしている
「真理は楕円形をしている」と内村鑑三が言ったそうだ。真理には中心点が二つあると。それは、真理が一つではないという意味ではなく、一つである真理は中心点が二つある構造をしているという意味だろう。
個と集団、保守と革新、地域性と国際性、特殊と普遍。二項対立のように見えるそれぞれの大切な考え方の緊張や対立を解消し、第三の道を探る必要にいつも迫られているように感じていたが、そもそも、その緊張関係そのものが解なのではと近頃思うようになった。
バランスを保つという何となく甘っちょろいことばに逃げたくはない。むしろ、二項対立のように見えるそれぞれの考え方に真剣に取っ組み合った上で、その緊張関係がぴったりと拮抗している状態そのものが解なのではないか。
孤独
気持ちが理解されないと、孤独を感じる。自分の悲しみ、苦しみ、痛み、悩み、嘆き、喜び、興奮、楽しみ。受け止められていないと感じると、孤独を感じる。
このコロナのように、身体が愛する人たちと引き離されれば、孤独を感じる。握手する、手をつなぐ、ハグをする、肩をたたく、背中をさする、あるいは、ただその場に共にいる。身体がそこになければ、孤独を感じる。
しかし、自分の考え、思想、哲学、世界観、自分の考えていることが否定されたり、理解されないことに人が深い孤独を覚えることは知らなかった。これほど苦しいものだったとは知らなかった。それが伝わらないことや、受け止められないことに、これほど苦痛を覚えていたとは知らなかった。受け止められて初めて、これまで感じてきた痛みや苛立ちに気づく。
ただその人のそばに共にいて、話を聞き、その人の感情や考えを受け止めること、理解しようとすること。それがいかに人の孤独を癒やし、人に愛されていると感じさせることか。そういう人に、私はなりたい。道のりは遠い。
時間
学生時代、ゼミの友人がいくつかの言語研究を通して、「私たちは未来に向かって前に進んでいるように一般的には思っているが、実際のところ、未来の方が私たちに向かってきているのではないか」というような発表をしていた。
「時間が後ろから前へと過ぎ去っていく。その時の流れの中を流されるようにして私たちが前に進んでいく」のではなく、時間が前から流れてきている。時間の方が前から私たちの方にやってきている。時間については私たち人間にコントロールできることなど何一つないのを考えると、実はその考え方の方が現実の描写に近いのではないかと思った。
ハイデガーか誰かの時間の概念について聞いているときに、アウグスティヌスの時間の捉え方について先生が触れたような気がした。アウグスティヌスはこの世界は過去、現在、未来と綿々と続いているのではなく、現在だけが存在していて、神がそれを一瞬一瞬再創造していると言ったそうな、言ってないそうな。うろ覚えである。アウグスティヌスが本当にそれを言ったかどうかは分からないが、時間概念として正しいような気がして納得したことは覚えている。今しか存在しない。過去は現在のものとして想起され、未来は向こうからやって来て現在となる。
最近、野家啓一『歴史を哲学する』岩波書店、2007年を読んで、神が存在するとしたら、神にとっては過去・現在・未来などなく「永遠の現在」だけがあるはずだという言説を知った。著者は神の視点を想定すること自体が誤謬だと主張しているが、「永遠の現在」という考えは興味深いと思った。実のところ人間も、経験できるのは、永遠ではないしても現在だけなのではないだろうか。過去は過去の時点で現在として経験されたもので過去を再び経験することはできず、未来は向こうからやってきて、現在として経験されるので、未来としては経験できない。
学生時代、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』を読んで、ユダヤ共同体の時間観念(というより多くの前近代的な時間概念)は、今のような過去、現在、未来の直線を描いていないという言説に出会った。ユダヤ共同体の場合それは、神の預言とその成就のような円運動を描いていて、それは直線のような進歩がないというわけではないが、少なくとも過去・現在・未来というような直線構造ではないと書かれていた(気がする)。神の預言とその成就という円運動で歴史を捉えることも、「永遠の現在」の考え方に限りなく近いのではないかと思う。
何が現実の時間概念描写に一番近いのだろう。
マインドフルネス的思考
マインドフルネスとは、➀人、物事、世界のあるがままの事実、現実、状態に気づくこと、②価値判断しないこと、だと言われる。これを思想・哲学・推し進めると、マインドフルネスのルーツでもある仏教の「悟り」のような宗教性を帯びるのであろうが、マインドフルネス自体は思想・哲学・世界観というよりは、ある種の技術 Artに近い。マインドフルネス的な思考に基づいて、価値判断せずに、物事のあるがままの真実に気づいた上で、どう行動するのかは、それぞれの判断に委ねられているからだ。
世界のあるがままの真実、現実、事実に気づいていくために、価値判断しないことが重要なのは、人が見たいものを見てしまう性質を持っているがゆえだ。これは良い、これは悪い、これは好き、これは嫌だと言った、感情、思考の価値判断が入り込んだ途端、人の現実は歪み始める。否定、逃避、乖離、脳がありとあらゆる手段を使って、現実を歪めようとするのだ。それゆえ、物事をそれが存在している状態として把握したいなら[Looking at things as they are]、ひとまず価値判断することを置いておくことが大切なのである。
「とりあえずpending 留保して、先に進みましょう」
学生時代、サンスクリット語の先生が授業中、よく口にしていた。ペンディングということばが聞きなれなかったので、よく覚えている。サンスクリット語は、古代ギリシャ語などと同様、関係詞などを使って、延々に文が続いていくので、とりあえず先に進まないと、文や単語の意味が決まらないということがあるのだ。とりあえずペンディングして、先に進んで情報を集めてから、意味を最後に確定する。ペンディング、ペンディング。先生は口ずさんでいた。
私たちの生き方もそういうものかもしれない。あまりにも早く拙速に価値判断したり、結論を出してしまうと、必要な情報が集まる前に答えを出してしまって、意味を取り違えてしまうことがある。ひとまず、価値判断はわきにおいて、現実を見ること、観察すること、眺めることに集中する。そして、十分に現実が見えてきた後でどうするか考える。そんな「ペンディングする生き方」をマインドフルネス的思考は励ましてくれるのかもしれない。